音は本当に変化しているのか?

最近、音響機材に関する記事を連続して投稿していますが、ひとつ大きな疑問があるのです。それは、機材によって音が変わるのって「気のせい」が主たる要因なんじゃね?ってことです。プラシーボ効果とでも言うのでしょうか、実際はそこまで音が変化していないのに、大きく変化してるように錯覚してるんじゃないか、ということです。

TASCAM AV-P250が届いたので早速使ってみた

例えば、最近書いたこの記事では、音のレンジが広がったと豪語していますが、それはあくまで自分の耳で聴いた感覚であり、測定器やらを使った客観的なデータで実証した訳ではありません。確かに音は変化したと思うのですが、「思う」の域を出きれないのです。人によっては「全然変わってない」と「思う」可能性もあります。

現に私自身、自分で作った曲でもwavとmp3が分からなくなることがあります。ギタートラックの編集中に誤って全く別のトラックのEQを調整していた事にしばらく気付かなかったこともあります。最悪だと思ってたミックスが後日聴いたらいい感じだったり、もちろんその逆も然りです。

本当に耳というのは(耳だけに限らず人間の五感というのは)曖昧なものなんだなと思い知らされる事ばかりです。

しかし、反対にこうも思った訳です。「俺は測定器じゃねぇぞ!」と。まあ、開き直った訳ですが、音楽は良い音のためにあるのではありません。良い音というのは音楽においてあくまでも手段に過ぎません。音楽の目的は伝えること、感動させることです。なんで、私は私の五感において良い音を知覚できるかどうかよりも、音楽を聴いて「感動するかどうか」に焦点を当てることにしました。

今の音響環境が以前と比べてどう変化したかなんてことは正直断言できません。私は測定器でないので。

でも、以前よりも感動する音にはなりました。それが気のせいだろうが何だろうが、人間の私として、本当のことなんです。

 

Aurorasound BusPower-Pro2が届いたので早速使ってみた

前回の記事「録音に関する電気系統の機材を発注した」で書いていた機材が家に届きました!今回使ってみたのがこれ!

 

Aurorasound BusPower-Pro2

音響機器等を専門に扱うAurorasound社の製品になります。

この機材、いったい何かと言うと、PCなどからUSB経由で電力供給(バスパワー)を受けている機器の間に挟むことで電力不足を補うことができる優れものなのです。

今回、私はこれをオーディオインターフェイスに使うことにしました。オーディオインターフェイスとは、PCからのデジタルデータをアナログに変換してスピーカーから音を出したり、マイクやギター等のアナログ音声をデジタルデータに変換してPCに録音・保存したりするものです。デジタルとアナログの連携役ですので、かなり重要な機材ですね。

私はRME社のBabyFaceというオーディオインターフェイスを使用しているのですが、これも基本的にバスパワーで作動します。スピーカーを繋いだりコンデンサーマイクを繋いだりと、何かと電力を使うため、PCからの電力供給だけでは心もとないと思い、この度購入することにしました。

実は私の使っているBabyFaceはACアダプターが繋がるので、単純な電力強化だけならアダプターを繋いでしまえばいいのですが、今回はアダプターの購入を見送りました。理由は①対応するACアダプターがかなり安価な物しか見つからず、それがノイズの発生源になりかねないと思ったから、②PCからUSB経由で電気に乗ったノイズが混入するのが嫌だった(BusPower-Pro2はノイズ除去機能がある)からです。

 

それで!BusPower-Pro2を繋いでみた印象なのですが、音が元気になりました!

 

音が一歩前に出てきてくれたような感じですね。中音域がよく出るようになった気がします。ロックとか聴くと気持ち良いですね。特にギターの音が良い。スピーカーではなくアンプから音が出ている感じがします。パーカッションの音もボトムが太くなってリアルに聴こえるようになりましたよ。

 

ただ、音が元気になった分だけ、ヒステリックで病的だと思っていた楽曲を聴くと「あれ?こんなに明るい曲だったっけ?」と思うくらい印象が変りました。というか、何を聴いても元気過ぎて「この曲はもっとジトッと湿ってて暗い曲だったはずなのに…」と思ってしまう。質感が完全に変わってますね。

 

これは良いのか、悪いのか!?うーん、判断つかねぇな。。。

 

ちなみに、BusPower-Pro2を繋いだ状態で楽曲のミックスをしてみたのですが、めちゃくちゃやり易かったです。今まで中低域から低域の繋ぎ目がよく分からなかったのですが、その辺の周波数に対するEQの反応がよく分かるようになりました!ダイナミクス系のプラグインの変化も顕著に分かるようになりましたよ!

 

ただ、やはり自分の曲に関しても「こんなに元気な曲だったっけ!?」と驚いてしまいます 笑。

 

単純に慣れの問題なのですかね、どうなんでしょう。

次回はスピーカーケーブルを交換してみますね!

TASCAM AV-P250が届いたので早速使ってみた

前回の記事「録音に関する電気系統の機材を発注した」で書いていた機材がやっと自宅に届きました!色々と発注したのですが、まず使ってみたのがこれ!

 

TASCAM AV-P250

音楽機材でおなじみTASCAM社のパワーディストリビュータです。

簡単に言うと音楽用の電源タップです。今まではどこにでも売ってる家庭用の電源タップを使用していました。

音楽のために良質な電源を確保して良い音で音楽を聴いたり録音したりしようやってのがこの商品を導入した目的になります。

 

さっそく家庭用の電源タップからコンセントを引っこ抜いて、PCとスピーカーをAV-P250に繋いで音楽を聴いてみたところ、、、何で今まで電源を意識して来なかったのだろうと後悔しましたよ!本当に!もっと早く導入しておけばよかったと、本気で思いました。

 

正直、電源なんかで音が変わるのかよ、ってのが導入前の私の考えでした。

 

ギターアンプを鳴らしたり、ライブハウスのような大音量で音を鳴らすなら電圧も音色に影響するだろうけど、私の場合、ギターはPC内部のアンプシミュレーターで鳴らしてしまうし、普段音楽を聴くときの音量も一般家庭で出せる音量の常識の範囲内です。音楽制作に使う機材もフルデジタルだし、うーん、、、パソコンとスピーカーが起動してれば音なんて変わらないんじゃね?と思っておりました。完全にそう確信してました。

 

が、しかし、、、

 

しかし、なのですよ。このAV-P250に電源を入れ替えてみたところですね、劇的に音が変りました。世の中には良質な電源を追い求めすぎて「こだわりの沼」にはまってしまう人種がいると聞いたことがあります。電柱まで自前で設置してしまったという人のエピソードを聞き、どうかしてるぜと思っておりましたが、いやはや、電源による音質の変化をこうも体感してしまうと、何となくそんな気持ちも分かる気がします。私も沼への第一歩を踏み出してしまったのでしょうか。。。

 

なにがそんなに変ったの?というところですが、

結論から言うと音のレンジが広がりました。低い音はちゃんと低く出て、高い音はちゃんと高く出るようになりました。

 

今までは出力されきっていないローエンドとハイエンドが中域に回りこんでいたのでしょうね、音が上下に広がりきれずにつまっているような、苦しそうな音の鳴りでした。

今は音が自由に鳴っている感じがします。なんなら「まだまだ鳴らせるぜ!もっとすごい音源持って来い!」と言わんばかりの余裕すら感じます。聴覚上のダイナミクスも向上した気がします。音楽がイキイキとして聴こえますね。低音域はリズム感が増して、中音域はまっすぐに伸び、高域はしなやかで透明感が増しました。音楽が鳴るフィールドが拡大されたような感じです。

 

私の使っているスピーカーはYAMAHA MSP5というもので、これ、左右のスピーカーにそれぞれ電源がついているアクティブスピーカーなんですね。電源にかなり依存する製品なので、今までの家庭用電源タップではスピーカーのスペックを最大限に発揮できていなかったのかも知れません。ここが私の最大の後悔でした。もっと早くこのスピーカーの良さを知っていれば、もっと良い音楽との付き合い方ができていたかも知れないなと思ったのです。これからアクティブスピーカーを導入される方は是非電源周りも気にしてみてください!

 

ちなみに、エレキギターやベースをパソコンに繋いで弾いてみたところ、やっぱり音はいい具合に変りましたね。ただ、これはちゃんと録音して編集して、素材として突き詰めたときの判断が重要だと思うので、説明はまた別の機会にしますね。

 

また、AV-P250は電源由来のノイズをカットしてくれるという素晴らしい機能も搭載されているのですが、私の場合、ノイズに関しては効果が分かりませんでした。ノイズの発生には色々な要因が考えられるので、これもまた改めて対処を考えてみようと思います!

 

でも、「TASCAM AV-P250」本当に買ってよかった機材です。

記事「録音に関する電気系統の機材を発注した」で発注した機材は他にもありますので、追って記事を書いていこうと思います!よろしくお願い致します。

 

録音に関する電気系統の機材を発注した

先日会ったスタジオのオーナー(参照「音楽現場の匂いが好きだ」)にあっさり感化されてしまった私はさっそく音響機器をネットで発注した。注文したのは電源周辺の機器と、ギターとスピーカーそれぞれのケーブルだ。オーナーに自宅で録音した音に不満がある旨相談したところ「電源周りとケーブル類はこだわった方が良い」とアドバイスを受けたからだ。

正直に言うと、音響において電源やケーブルといった電気的な要素はおまじない程度にしか考えていなかった。録り音なら楽器と演奏技術だ!出音なら部屋鳴りやスピーカーの選定・調整など物理的な要素を突き詰めてなんぼだ!そうこうしても納得できる音が出ない。。。そうして辿り着くのが電気系統だと思っていた。

しかしだ、オーナーが音質に関してまずはじめに言及したのは電気系統の電源とケーブルだった。使ってる機材も言ってないのにだよ?もしかするとアマチュアDTMerに対する啓蒙的な側面もあったのかも知れないが、それだけ重要な要素ということには違いない。何よりそういった電気系統機器の購入を決めさせた会話は以下のとおりだ。

「僕、耳が悪いんで良い音がつくれないんですよ」

「人の耳に極端に良いも悪いもあるものか。聴力検査を通ってるならそれで十分だ」

「それでも狙った音像と全然違うものになるんですよ」

「それは元々無い音を作り出そうとしているからだよ」

なんだか、深く納得できた。今まで自分の録音してきた音源には、言葉では表現できない、アナライザーでも表示できないような質感が「無い」ような気がしていたからだ。

こう書いてると少し盲信的な気がしないでもないが、学ぶより真似ろだ。早く機材届かないかな。どんな結果になろうとも楽しみだ。

音楽の現場の匂いが好きだ

今日、ベースの弦の張替えをしている時、誤って一弦を切ってしまった。いつもならネット通販で発注しているのだが、一弦が無い状態のまま届くまで待っているのも嫌だった。しかし、一番最寄りの楽器屋までは車で片道1時間。ちょっとダルい。それならばと、隣町のレコーディングスタジオにベース弦を買えるか問い合わせてみると「ある」とのこと。やった。早速行くことにしよう。十年前、バンドを組んでいた頃よくお世話になったあのスタジオへ。

駐車場に車を止めてビルの外階段を上がっていく。「階段でタムろ禁止」のプラが懐かしい。扉を開けるとオーナーが出迎えてくれた。オーナーも懐かしい。私のことは覚えているような、そうでもないようなという感じだったけど、私ははっきりと覚えていますから!

そこから色々とお話をいただいた。今現在は宅録メインでやってますと話すと、宅録のポイントもちょびっと教えてくださったりした。私の知識があまりないので音楽談義とまではいかなかったけれど、やはり音楽の第一線で働かれている方の話を聞くのは楽しい。

これは持論なのだけれど、人類史において音楽が派生してからこれまで脈々と受継がれた音楽DNAみたいなものがあると思う。これは、私やあなたも持っているのだけれど、普段は生活や仕事の影に隠れてしまってあまり表出されない遺伝子だ。それでも、資本主義の歴史がここ数百年なのに対して、音楽の歴史は有史以前から、もしかすると30万年以上前から我々は音楽と共に生きてきた可能性もある。お金は我々にすさまじい恩恵を与えてくれたが、一枚の紙幣よりも、ひとつの美しい旋律に胸を打たれ感動させられるのは、この音楽DNAが今もなお我々の中にあるからではないだろうか。

とりわけ、音楽を稼業として生業として生活されてる方々はこのDNAが色濃く残っている方のように感じられる。そんな方と話をしていると、自分の中の音楽DNAも感化される。つまるところ「音楽やりてー!」って気持ちになるのだ。

話が逸れてしまったが、久しぶりにスタジオに足を運んで良かったなと思う。なんで自分が音楽をやろうと思ったのか思い出された。音楽で腹は膨れないが音楽は生活に彩りを与えてくれる。そして我々はそんな彩りがないと生きていられない生き物なのだ。

朝の憂鬱に対しての解消法

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私は朝が苦手だ。その日に起こるであろう一切を考えると、憂鬱で憂鬱で仕方なくなる。朝目が覚めた瞬間と共に訪れる絶望感、焦燥感、寂寞感は泣き叫びたくなるほどで、人生を恨み未来を恨み関係を恨みながら只々布団の中で繭のように篭っている他、これを解消する手立てはないかのように感じられる。しかし、生活するためにはそうも言っていられない。そこで私なりの朝の憂鬱解消法を以下の通り紹介したい。

 

①睡眠の量と質を確保する

そもそも睡眠が不足していたら気分が落ち込むのは当然だ。睡眠欲求は生理的欲求のひとつで、これが満たされていないと本能的に死を察知して憂鬱になる。時間だけでなく質も大切で、暗くする、機械的な雑音を入れない、眠りやすい室温にする、良い空気を保つことが個人的に重要だと思っている。

 

②散歩する

散歩のメリットは主に①体を動かし脳を活発にさせる②陽の光を浴びて眠気を飛ばす③排泄を促すことだ。二度寝したいという気持ちを振り切って外へ歩き出すと、ある一時から眠気と憂鬱が風に飛ばされていくような感覚になる。歩行により排泄が促されるので胃腸の調子も良くなる。蛇足だが腸がきれいになると不思議と気分が良くなる。腸は第二の脳といわれているので、気になった方は調べてみて欲しい。ただし睡眠時間が不足する位なら散歩せず眠っていた方がいい。朝に散歩するなら「最低7時間は睡眠を確保する。そのうえで朝の30分を散歩にあてる」などとルール化し睡眠時間を削らないようにしたい。

 

③風呂に入る

睡眠中は体や脳を休めるため体温がかなり下がっている。そこから徐々に体温が上がっていき目覚めるのが自然なのだが、起床時刻が決まっているとなかなかそうもいかない。深い眠りの最中に起きると体温は低いままだ。私の場合、体が冷えているとネガティブになるが、おそらく多くの人もそうだと思う。朝の憂鬱に体温は密接に関係している。風呂に入り体を温めていると守られているようで段々と安心してくる。熱めのお湯に浸かると体が刺激され眠気も軽減される。ただし、疲れるので長湯は避けたい。

 

④晩酌しない

これは補足になるけれど、アルコールは本当に気分に良くない。鬱病の診断をするにあたり、まずは4週間の禁酒を指示するところもあるようだ。これはアルコールを抜かないとフラットな精神状態が診断できないからだとか。とは言っても飲みたくなるよね。かくいう私も晩酌しないと一日が終わらないタイプの人間である。むしろ晩酌のために生きていると言っても過言ではない。ただ、飲み過ぎた翌朝はいつも胸をえぐり取るようなドス黒い憂鬱と対峙している。酒との向き合い方も今後考えていく必要がありそうだ。

 

さいごに

そもそもなんで朝に憂鬱になるのか考えてみた。それは睡眠が体にとって圧倒的に自由な時間だからではないだろうか。体は睡眠中、社会にも、人間関係にも、自我にすらも縛られていない。体の機能の赴くまま、脳の活動の赴くまま、何の制限を受けることなく過ごしていられるのは睡眠中だけだ。

目覚めとともに体の自由は終わる。意思に支配されるからだ。これを体が猛烈に拒んでいる状態こそ、朝の憂鬱の正体なのではないか。

体を支配した自我もうかうかしているとすぐに別の意思に支配される。家族の一員としての意思、世間の一員としての意思、社会の一員としての意思、組織の一員としての意思、、、次々に体は高次の理性が伴う意思に支配されていき「行ってきます」と家を出る頃には体の声ははるか遠くに追いやられている。

悲しいかな、人間は理性的な意思により体の声を振りはらうことで繁栄してきた。もしかすると朝の憂鬱は人間が文化的な生活を営むために背負った対価なのかも知れない。

山で迷子になったときの話

何年か前に山で迷子になったことがある。あのまま帰れなかったら「遭難」ってことになるんだろうな。帰ってこれてよかった。途中から道案内してくれた二人の男性には今も感謝している。

 

その日は思い立って普段乗りもしない路線の電車で出掛けてみることにした。その路線は水郡線といい、別名で「奥久慈清流ライン」という洒落た名が付けられている。水戸駅から水郡線に乗り北を目指す。いつか高校生の頃の担任が水郡線に乗ったときの感動を語っていたことを思い出す。「次々と木漏れ日をくぐり抜けていく。車窓から見た久慈川が美しかった」確かそんなことを言っていた気がする。どんなものかと窓に近い席に座ったが、どうも背もたれが直角に近過ぎて落ち着かない。楽しみに買っておいた缶ビールを少しずつ飲みながら車窓を眺めたが、その日は曇りだった。

1時間くらいかけて矢祭山駅という駅に降りる。名前のとおり、駅を降りてすぐに矢祭山があり、渓流を挟んだ向かい側には桧山という山がある。どちら側にも吊橋を渡って行き来することができ、ちょっとした観光地だ。自然豊かな山間の風景の中、昔ながらといった感じの土産屋が数件並んでいる。

早速吊橋を渡り桧山という山の方に行ってみた。桧山は標高の高い山ではない。案内図を見てみるとハイキングコースやキャンプ場が整備されており、散歩にはもってこいだと思った。ひとり山を登り始めると得も言えぬ開放感を感じた。気ままに山道を歩くことは何て自由なんだろう。案内図の写真を撮っておいたのでそれを頼りに山頂を目指す。木の枝を杖代わりにして、気分はもはや旅人だ。

途中、二人の男性を見掛けた。彼らもハイキングに来たのだろうか。気配から察するに、この時この山に入っているのは、私も含めてその三人だけのようだった。

ようやく山頂に到着した。最初こそ気楽に登れていたものの、途中から落ち葉で足元が悪くなったり、傾斜が急になったりで疲労感が募っていた。山頂からの景色はなかなかのものだった。傾き始めた陽が雲の陰を抜けて辺りの山々を照らしていた。しばらく景色を眺めていると例の二人も山頂までやって来た。やはりこの山、なかなか疲れる山らしく二人は互いを労い合っている。「分かるよ。俺も無表情でなんてことない顔してるけど、実際今すごく疲れてるよ」なんて心の中で思いながら「こんにちわ」と手短に挨拶をして先に下山することにした。

来た道を戻っているとき、異変に気が付いた。いつの間にか見覚えの無い道を歩いていたのだ。どこか曲がるべきところを曲がらなかったのだろうか、一瞬不安が過ぎったが歩いてればすぐに入り口に着くだろうと思いそのまま進むことにした。そうこうするうちにどんどん山間に入っていく。途中、倒木が道を塞いでいた。横倒しになった木の幹は意外と高く乗り越えることが難しい。根元の方から周ろうにも地面が隆起しておりそこを越えるのも大変だ。なんとか乗り越えられそうなポイントを見つけて身をよじらせるも、木の枝が体を引っ掻き、痛い。ようやく倒木を乗り越えることができ、道を進むも、山間に入ったせいか急に辺りが暗くなって来た気がする。「これはやばいかも」と思って携帯を見ると、電波が微弱だ。どっと焦りが来た。

「俺、もしかして遭難しかけてる?」

来た道を戻ることにした。倒木を再び乗り越え早足で歩いていく。しばらく歩きまた気付く。「この道も見覚えがない」やばいやばい、辺りがまた一層暗くなっている。とにかく見覚えのある道を探さないとと、再度踵を返す。途中、首から下げていたはずのタオルが道に落ちていた。焦っていてタオルを落としたことにも気付かなかったんだ。もはや携帯で撮っておいた案内図も役に立たない。なにせ目印が何もないのだから。夕闇で辺りの色彩が変わってくると記憶の道と歩いている道が合致しているのか自信が無くなってくる。

「これは、本当にやっちまったかも」

途方に暮れ始めた頃、人の気配を感じた。目を見張るとさっきの二人組みの男性が歩いている。恥も外聞もかなぐり捨てて声を掛けることにした。「すいません。道に迷ってしまって。ご一緒させてくれませんか?」まさかこんなRPGの村の少女Aみたいな台詞を自分が言う日が来るとは思わなかった。二人は「あ、さっき歩いてた方ですね。一緒に行きましょう」と気さくに応じてくれた。ありがたくて、涙が出そうになった。聞くと二人を見付けた道も本来のルートではないとのこと。せっかくだからと探索していたところ私が声を掛けて来たらしい。よかった。二人が探索してくれていて本当によかった。

二人の後を金魚の糞のようにくっつきながら下山していく。入山した頃、木の枝なんか持っちゃって颯爽と歩いていた自分を思い出し恥ずかしくなる。ちなみにその姿を見ていた二人は私のことを「山に慣れた人」だと思っていたとか。色々と泣きそうになった。そうこうしているうちにようやく人の気配がする景色が見えてきた。渡ってきた吊橋も見える。「よかった。ありがとうございました。電車で来てるので私はこれで失礼します。本当に助かりました」と礼を言い二人と別れた。

駅で時刻表を確認すると次の電車が来るまで小一時間ほどあった。駅の構内から二人がまだ辺りをウロウロしているのが見えた。「そうだ」と思い近くの土産屋で二人に礼の品を買うことにした。こういう時は飲み物が妥当だろうが、さっき自販機でジュースを買っているのを見ていたため何にするか迷った。散々物色してから二人のところへ行き「先ほどは大変お世話になりました。これよかったら食べてください」と買ったばかりのトッポを手渡した。コンマ1秒くらい「え?」という空気がよぎった。でも、すぐに返って申し訳ないと受け取ってくれた。そうか、トッポはこういう時に渡すものじゃないんだと悟りつつ、逃げるように駅へ戻った。ホームのベンチに座って黄昏の空を眺めながら私はさっきトッポと一緒に買っておいた缶ビールを飲んだ。

 

二人には本当に今も感謝しています。

その節はありがとうございました。