イメージの自分との対峙

私には妙な習慣がある。
それは、自分と向き合いたい時に誰もいないところで泣き叫ぶというものだ。
これは自然派性的にそういう習慣が身に付いた訳ではなく、それなりに理由がある。

記憶がおぼろげなもので情報の信憑性に自信が持てないが、いつの日か以下のようなエピソードを聞いた。

日本の名シンガーソングライター河島英五氏は、後輩の歌を聴き「別室に行って思い切り泣き叫んでから、もう一度歌ってみろ」とアドバイスした。実際その通りにした後輩の歌は最初よりもずっと良くなっていたそうだ。

私も稚拙ながらも歌うたいのはしくれなもので、このエピソードを聞いてすぐに実践してみようと思った。車の中、通りの少ない夜道を走る。ここなら誰にも聞こえない、誰の迷惑にならない、大声で泣き叫ぼう、叫ぼう、いくぞ、、、あれ?できない、、、、。
そう、できなかったのだ。誰も見ていない、誰も聞いていないそんな渦中にも関わらず、叫ぶことができなかった。
これは、是非、皆さんにも実践して欲しい。私もいまだに大声で泣き叫ぶには勇気がいる。おそらく、初めてやってみる方は大声で泣き叫ぶことができないと思う。

自分だけの空間で、自分の意思の通り行動ができないという事実に直面した時、おそらく心の中では自分と自分のイメージしている自分とが対峙し、葛藤しているのだ。

残念なことに、我々は自分のイメージしている自分を逸脱することを嫌う。意味もなく泣き叫ぶって、それってやばくない?ってところからなかなか一歩踏み出せないのだ。例えそれがたった一人の空間であったとしても。

なんとか勇気を出して一歩踏み台して泣き叫んでみる。すると今度はどうだろう、「やっちまった」と思うのだ。誰が居る訳でないのに照れ笑いとかしてしまうのだ、何なら超えちゃいけない一線を半歩くらい踏み越えてしまった感覚になるのだ。ああ、これで私もまともではなくなってしまったなと、さぞがっかりすることだろう。

しかし、この感覚にこそ、本質がある。結局、自分を縛り付けているのは自分自身なのだという事実に気が付く。
この文章を読んで分かったつもりになるのではなく、是非実際に泣き叫んで奇声を上げてみて欲しい。そこで自分のイメージしている自分と対峙してみて欲しい。イメージの自分は良く言えば自分を秩序立てているが、悪く言えば自分を縛り付けている。それを捨て去る必要はないと思う。ただ、その事実を身を持って知ることで、自分の所在が認知できる。

あなたがあなたに持っているイメージは一体何なのか。あなたが思っているあなたは本当にあなた自身の産物なのだろうか。誰かのイメージのせいで辛い思いをしていないだろうか。知らぬうちに自分を騙してはいないだろうか。そんなイメージと本当の自分との乖離のせいであなたは苦しんでいないだろうか。

ひとり大声で泣き叫んでみていただきたい。
その時、たった一人のあなたを見つめているのは、誰だ?

それは一体何だ?