散歩道

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今日は田んぼから里山にかけて小一時間ほど散歩してきた。いやぁ、気持ち良かった。

住宅地から数分の場所だけど、たっぷり風に吹かれてたっぷり木漏れ日を浴びて、土も踏んで草の匂いも嗅いでリフレッシュできた。


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たまには、アグレッシブとかエキサイティングとかそういうのとは真逆の休日も悪くない。ひとりで気ままに誰にも会わず、誰の目も気にせず歩き回っていると、自由ってものが少しだけ実感できた気がする。虫の声と風のざわめきにワクワクしたのっていつ振りの事だろう。


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人間は社会的な生き物だという。確かに人間関係の中で自分という存在を実感する機会は多くある。しかし、人間も生き物である以上は自然の一部に違いないのだ。本来、自然と人間との間に線なんかない。


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それでもやはり人間は社会的な生き物だ。家族の中に、地域の中に、社会の中にはやはりそれぞれの自分がいて、いくら愚痴たれても弱音を吐いても気が滅入っても、それらの関係から完全に離れることはできない。

ただ、不思議と自然の中にいるとそういう当たり前のことがありがたく感じられる。つまるところ、帰る場所があるってことはありがてえな、という気持ちになる。


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だから、これからも現状に感謝しつつ頑張りましょうや、とかそういう話ではなく、普段と違った考え方ができたって事が大事なんだ。今回はそのきっかけが散歩だったけど、本当はなんでもいいと思うんだ。そのきっかけさえあれば。自分を決めてるのはいつだって結局自分自身なんだって気付けるから。

 

今日は、いつからか凝り固まってしまっていた自分ってやつが、少しだけ柔らかくなった気がする。

墓参りにて

先日、春分の日、お彼岸ということもあり墓参りへ行った。祖父が眠る墓は地元の寺にある。決して大きな寺ではないが、境内には立派な銀杏の木があり、眼下に田園を見渡せるため、なかなか趣のある場所だ。

この寺の起源は700年も昔に遡るという。木漏れ日を眺めながら、当時の人々に思いを馳せた。どんな暮らしをして、どんなことを考えていたのだろうか。そして、当時の人々に会えたならどんな話をしようか、そんなことを考えた。

資本主義であったり、機械のことであったり、科学のことであったり伝えてみたいと思った。

 

「世界中の人々が資本主義に熱中していて、競争原理により世の中には便利が溢れ返っているんだ。更にこのゲームの勝者になれば平民の生まれでも何世代も遊んで暮らせるような大金を手に入れることができる」

「携帯電話を使えば世界中の誰とでも話すことができる。行ったことのない場所、会ったことのない人の生活や考えも知ることができる。これがあれば娘や息子が家を出ていってもいらぬ心配をする必要はない」

「この世の仕組みが分かり始めてきたんだ。これによって人間は未来が少しだけ分かるようになった。とても大きな力も手に入れた。大概の病気は治るようになったし、月にだって行けるようになった」

 

等と話してみたい気持ちになった、その束の間だった。

 

「それでお前の心は豊かになったのか?」

 

もしかしたら、自分自身の声だったのかも知れない。日頃思ってることが無意識に言葉になったのかも知れない。

 

「私たちは常に心の土壌を耕さなくてはならない。水をやらなくてはならない」

 

どこかで読んだ一節なのかも知れない。誰かから聞いた話なのかも知れない。

 

ただただ、そんな言葉が腑に落ちるような形で胸に置き去りにされていた。

 

木々が風を受けて騒めいていた。眼下には田園が広がっていた。いつもの様に階段を下った。祖母の家が見えてきた。空が青かった。きっと何万年も前から、空は青かった。

 

 

ブログを引っ越しました


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こんにちわ。

あせかくさんです。

 

今日、ブログを引っ越しました。今度からははてなブログで書いていきます。

以前のブログにも愛着はあったのですが、操作性と見た目と記事の書き易さを考慮して、はてなブログを利用させてもらうことにしました。

改めて、よろしくお願い致します。

 

ときに、私の書くブログの価値ってなんなんだろうなと、そんなことを思った。有名人でもないし、専門の知識がある訳でもなく、鋭い洞察で的確に本質を突くでもなく、お得な情報何かも載っていない。

 

まあ、特に意味はないわな、と言ってしまえばその通りなのだ。

 

しかし、敢えて言いたい。人が言葉を記したり声に出したりすることに、無価値なことなどないと。

 

先ほど、このブログの価値ということに触れたが、価値というのは人の尺度によって変わるものだ。例えば、このブログが十万年後、現代の情報媒体の殆どが存在しなくなった未来で奇跡的に発見されたとする。すると、今は何の価値もないこのブログがものすごい価値に変わる可能性が出てくる。

 

もちろん、十万年も未来の人間が古代の人間の営みに価値を見出すのかどうかという点について断言はできないが。

 

ただ、私が言いたいのは、その時々によって変化する価値なんてものに一喜一憂することなどないし、まして価値が見出だせないという考えで言葉を飲み込んでしまうことが一番無価値に近い行為なのかも知れないということだ。

 

このブログには、特に意味がないかも知れない。でも、いつかどこかの誰かには、もしかしたらあなたには何かの価値になればいいなと思って書きますので、引き続きご愛顧賜りますようお願いいたします。